写真×REALITY

写真は芸術においてとても素晴らしい瞬間の描写だと思う

私は未踏の地の美しい風景の写真や人々の暮らしの写真が好きだ

フォトグラファーには感服する

シャッターを押すのは今を感じた瞬間

どのようにその瞬間をカメラに収めることができたのか

映り出されている過去の片鱗は圧巻としか言えない

瞬間を切り取り

最も美しいと感じた瞬間を記録する

私たちはその裏側に隠された真実に心を揺さぶられる

芸術と云う名の物全てがそうであるかのように

私の子供の頃はフィルムカメラの時代

撮ったものは写真屋さんに持って行く

すると数日後 

現像した写真と共にセピア色した長いフィルムを渡してくれる

値段は1600円くらいだっただろうか・・・

心躍らせながら出来上がってきた写真を眺めた

フィルムカメラの時代はデジタルへ変遷し

今は2歳の子だって携帯で撮影した自分の姿をすぐに「見せて」とせがむ

すごい時代になった

自動修正アプリを使うことも一般的になり 

会ったら全然違う人事件や

盛りすぎ写真はsns内に数知れず

アプリ効果か否かの見極めの目も誤魔化されて

真実がまるで雲に隠れてしまったような気がする時もある

さて

先日とても暑い日に外で子供たちと水遊びをした

高校生の息子と小学六年生の娘

3歳の元気溢れる愛犬

そして

ホースに差し込むだけで240個もできる水風船

バケツ

リアカーにたっぷり汲んだ水

全身頭の先から足先までずぶ濡れになりながらの水遊び

キャーキャー言いながら

笑い転げながら

とっても楽しくて

その愛おしい時間が眩しすぎて

みんなにもこの楽しさを分けてあげたいと思った

でもシェアする写真がない

私の写真に対する感性が乏しいのか

ただ反応が遅くシャッターチャンスをすぐに逃してしまうのか・・・

“ただただ楽しすぎた”

写真を撮る隙間の時間が見つからなかった

途中で写真撮影の為に時間の流れを止めたくなかった

私は外に向けて発信するのはあまり得意なタイプでは無い

美しい瞬間を写真にする為に時間を使うよりかは

不器用なりの方法で

内側で感じて経験として記憶に残せると良い

その時間をただ楽しめばいい

誰に見せるのでもなく

それで良いのだと思った

リアリティ

肉体を手放す時

写真を一緒に持っていくことはできないが

記憶はその身体に色濃く刻まれる

やがてその記憶や体験も遠くに行ってしまう時が来るかもしれないが

充足感は増えたり減ったりするものではない

外の世界は美しさで溢れている

写真を撮るという行為がSNSに載せるためならば

レンズからだけではなく

自分の目で感じとる世界が存在していることを知ると良い

子供たちにそう伝えたい

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