
“生きたい”や”健康になりたい” と思うこと
どんな人も身体は元気でいたいと思うものです
名前がついた症状や病気を持っている人は尚更
「元気になりたい」と願うでしょう
苦痛は誰しも”避けたいもの”ですから
今はまだ大丈夫だけど
老いていく肉体の足枷となる要素をなるだけ排除するというか・・・
念の為にそうならないための行動をとるというか・・・
未来への不安
こうありたいという欲求
私たちを突き動かしているのは
いつ何時も願望であるということに違いありませんね
人間は願いを叶えたいと思う様に日々生きているのですから
健康食品
特定保険用食品?
機能性表示食品!?
世の中は難しいネーミングの商品がありますね
いわゆる健康を売りにしているビジネスはとても多いです
• 体脂肪を減らす
• 血糖値の上昇を抑える
• 血圧を下げる
• 腸内環境を改善する
• ストレスや疲労感を軽減する
• 記憶力を維持する
• 関節の動きをサポートする
などの効能がありますよ!が売りです
「病気が治ります」とは言ってくれません
「○○を抑える効果がある」
「○○の改善」と言います
(改善ということはより良くなるという事・・・良いの基準点はどこ!?)
少し高めの数値が気になる人にとっては大変心揺さぶられる訳ですね
私たちは何のために生きてるのでしょう
身体を良くするためかな?
この肉体や状況を維持し保ちたいという思いや
死や滅びることに対しての恐れかな?
若返り!?
いやいや年相応で充分
肉体年齢!?
今から10代に近づいても10代程のパワーは必要ない
この肉体にしがみついて
手放す時が来たとしても
発展した医学で手術をし
命の期限を薬で延長
痛みを我慢をしながら
肉体にこだわり
生きるを選択する人が殆どかもしれません
日本では病院でなくなる人が8割もいるだとか
これは世界的に見ても多い数だそうですね
所謂 体に良いと言われるものを
肉体の維持のために摂る
でも
病気になるときはなるし
ならない時はならない
果たして
何かをしなかったから病気になったのでしょうか
病気になった方は口々に身に覚えがない
突然病が襲ってきたと言います
気付ける身体や感覚を持ち合わせていなかった・・・
身体の声を聞くことができていなかったんだなと
最近の私は自分事も同じ様に考えます
良質な自然のものを頂く時
環境や生態系とは不和が起こらないのではないでしょうか
他の命を摂ること
人工的に大量に生育されている他の肉体を通して自身のエネルギーを得る
動物たちの意思とは全く別に
人間の欲を満たすために生育されているもの
需要と供給のシステム
化学的なものや人工で作られたものは
自身の身体にも悪影響を及ぼし
自分自身に対して摩擦が起こり不調和を起こす
これこそがアダルマ(不調和)な状況であるのですね
人間はアダルマを起こしてしまう生き物
ダルマ(調和)を選択する生き方を始めることができるはずなのに
アダルマを不意に起こしています
行いの結果によっては
直接望まなくとも不調和を不和を起こしてしまう可能性があるのです
健康のために○○をとる
私たちが意識で体は借りている乗り物ならば
乗り物をきれいに扱うという面では
滞りなく循環良く過ごすことが大切だと思います
ヨーガで教えられるシャウチャ(浄化 きれいにする事)という知恵がある様に
ヴェーダンタでは
周りと自分が摩擦するものを選ばない
だから
“肉を食べない”
“人工的な生産過程で運ばれて来た乳製品は摂らない”となるのですが
何年も学んでいるのに古い習性から抜け出ることが出来ず
どうしてだろうと理解に苦しんでいました
それが
自らの体験を通じで感じた時に
朧げだった外郭がくっきりと見えた瞬間がふと訪れました
頭の中の整理ができれば
それを仲間と共有し合える
私たちがこの世界にある意識ならば
肉体を超えた話も必要になるのだと思います
健康があれば安全
お金があれば将来安心
このループが永遠にある以上
私たちはずっと足りない感覚から逃れられずに過ごすことになるのでしょう
「ある」とは何か
食も体も実に奥深いと思いながらスーパーの陳列棚に目を向けた時
いつにも増して
生産者の背景
それはどこからどうやってここまで運ばれて来たのかをよく考え
「食育」という名の授業に自然と参加している自分を見つけました
食べ物のありがたさを知る為に
モノで溢れる世の中だからこそ
親子で食卓を共にする時に食について会話をするといいですね
お友達から頂いた大地の産物
筍もワラビもコゴミも大変味わい深く有難い5月でした