なんにもないがある

夏至が過ぎて

北海道にもいよいよ夏到来!という

久しぶりのピカピカなお天気になった週末

今はもう大きくなった子供たちと

札幌市南区探訪へ

小さい頃にしばしば訪れた

滝野すずらん公園へ行きました

この公園に最後に来たのはおそらく7年前

身体のサイズやものの見方

そもそも私たち自身が変化し

公園の遊具のサイズに合わない3人+1

改めて思い出の地の公園を訪れて

何を感じるのかというのが今日の目的の1つ

私は一人の母として

小さな子供たちが走り回る過去のイメージと

懐かしさを胸にしながら園内を散策しました

きゃっきゃという歓喜の声

汗だくになりながら肌をキラキラさせて

目を爛々と輝かせている子供達

生きるってこんな事だよな

楽しさってこうだよな・・・

と再確認させられます

その反面

転んだり

喧嘩したり

両親に怒られ泣いている子(正確にいうと暑さと疲れとで苛立ちを感じている両親の感情をぶつけられてしまった残念なケース)

も沢山見られました

よそ様のことにであるにも関わらず

“子育てはヤグニャ(儀式)です”

というスワミジの言葉を思い出します

「人間の美しさはそこなのにな・・・」

とボソッとちびまるこ風に感じたりもしながら

私の周りで起こる図と陰陽図が相重なりました

園内の遊具はもうすでに小さいし

あんなに広いと感じていた敷地もあれ!?

意外とすぐ回れちゃうんだ

あの頃は虹の巣ドームに夢中だったな

このご時世で閉鎖中と書いてある

ヘルメットを被って滑れるスライダーも

懐かしさを目の前にして

隣を見ると大きく成長した二人の子供たち

子供の成長は母にとって嬉しい反面

寂しいものだとよく聞くけれど

手をかけなければ何もできなかった子が

自らの力で歩いていく姿を見ているうちに

自分の手の内から何かが去ってしまうように感じるからなのかも知れませんね

愛おしいあの頃は遠い彼方へ行ってしまったと

過去と現実の差ばかりを見比べる

なくなったと思われるものは一体どこへ行ったのでしょう

目で見るものしか存在しないと思ってはいませんか?

瞳を閉じたら浮かぶものは己の内側にもう既に存在しているもの

目の前のその人は

体こそ大きくなったけれど

質は何も変わらない

過去の思い出や経験のフィルターを外して

シンプルにその人を見た時

私が失ったと思っていたものは

既にそこにあるのだと思い起こすことができます

それは”所有”という意味のものとかけ離れます

どれだけのものを所有していると勘違いしているのでしょうか

“私のもの”と思ったものは

個人らしく存在しているこの体が原因です

無知である故

形や物や人は所有できないことを知らないのです

先程 

子育てはヤグニャ(儀式)であるというお話をしました  

儀式という日本語から感じるのは

宗教的なものになってしまうのかも知れませんが

儀式を繰り返すと

ある日それがプンニャ(徳)として返ってくることがあります

子育て経験者の皆が口をそろえて言う

“子供は親を成長させてくれる”という言葉がそれです

成長とは人間としての成長

まさしくそれは有難いギフトなのです

子を授かること

子育てに従事できること

母として家を守れること

これらは子を持つ母に与えられた奉仕の儀式

それと同時に

人として成長できる有難いチャンスを与えられているのです

そこに良し悪しも

できるできないも

すべきもすべきでないも

ただいつも「なんにもないがある」だけです

“私の〇〇”なんて陳腐な考えは

さっさとよそへやってしまいましょうよ

五感で感じる”所有”の裏に

もう既に私たちは”ないがある”というのを知っているのですから

緑が生い茂る初夏の爽やかさ

心地良い風の波が基本のシンプルな私に寄せて返します

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