
朝目覚めた瞬間にふと思った
「もしこのまま全身が麻痺して目だけしか動かせなかったら・・・」
想像できる最悪の朝を練習をしてみる
目は開いた!
相手が何を話しているのかも分かるのに
自分では身体を動かすことも喋ることも
痒いところに少し手を伸ばすこともできやしない
考えが頭の中を巡るんだろうな・・・
そうなった時に私はこの体で
この世で何をする事ができるだろう・・・
不思議なものだ
ヴェーダンタを学ぶ様になって5年目
ボディワークは3年目に入っただろうか
学びの深さは年数と完全に比例するわけではないし
どちらも飛躍的に学びが深まった訳ではないのだろうけど
確実に私の中の意識は変化をしていて
確実に身体も変化している
ベッドの上で目覚めた
“身体は使えないけれど意識が輝いている私”を感じた時
目だけでも動かせるなら
何かしらの変化を起こすことが可能であろうと思い演じてみる
仰向けに寝かされた状態で
瞼を開け
(瞼を開けるのも大変かな・・・
もしかすると開けられないくらい重いかもしれない)
上下左右の景色を見にいく
こんな活発に動ける体でも
視線の送り方には大きな癖があり
習慣でしか動けないのを実感する
コンフォートゾーンを越えようとすると他が動かざるを得ないのだ
慎重に目のワークをしてみる
その数十分後
起き上がった瞬間の快適さといったら!
とても気持ちが良く
視界もいつもより広く良好
最近の朝ではNo. 1の体の動かしやすさだったかも知れない!
「これなんだなぁ」
寝たきりでも
動ける一部分が残されているなら
本人の意思と意識で変わる可能性があるだろう
そんな時でも希望をもてる芯の強さ
身体や知識体への学びは私は限られた人ではないという事を教えてくれる
ヴェーダンタの先輩に勧められ
Jill Bolt Taylorの「奇跡の脳」を読んだ時
当時はまだボディワークには出会っていなかったのだけど
未体験ゾーンの話がとても興味深かったのを思い出す
肉体と感覚と意識のお話
マジカルな現象が起きて
周りをハッと驚愕させる病者の変化は
個人の意識下でとてつもなく大きな働きをし
潜在的な脳の役割を引き出しているのではなかろうか
それはある分野ではボディイメージやボディマップなどと呼ばれたり
アヌサラではブループリントなどと言われたり
ヨーガではアンナマヤコーシャ(食べ物の体)やストゥーラシャリラ(粗雑な体)と分類される
この触れる生身の肉体感覚から得る情報と
思考から創造
ヴィジュアライズできるイメージが合致した時
数字じゃ測れない
“深淵なる個人の意識のエリア”
よそから見たら何も起きていない様に
全く変化がない様に感じるけれど
個人の意識下ではそれはそれは大きな波が起こり
体中に電気が走る
身体が動かなくなって
最後に残るのは意識
身体が動いている間はそれすら気付かないかもしれない
それは
私たちはいつも肉体が優先で
私 イコール 肉体
であるという概念から離れる事ができないから
したがって
動く身体があるのであれば
まずそこからアプローチした方が早いのは確実
肉体を持ってこの世に生まれて
人生得をしたのか損をしたのか
限りのある体で出来ることを通じて
私たちは生きることを勉強していますね
二元性がある様に見られるこの世界観が
一つである事に気づけるその日まで
私達はこの肉体を通しての
体験や感覚にこだわっていくのだろうと思います
体験が全てと言われる所以がそこにあるように